自由を求めて

恐ろしく確実なもの

前回に少し描写しましたように、
自由を得るというのは、なかなか大変な事なのであります。


自己の存在の中で唯一自由になる「思考」ですら、
簡単には意思に従ってはくれません。



そのような不安定な自己の中に、
恐ろしく確実で、頼りになる装置を形成することは可能です。


それは「身体意識」と呼ばれるものです。


身体意識という言葉は、
高岡英夫氏が、提唱し、体系化されたもので、
こちらは、非常によく体系化されているため、
氏の書籍などを読めば、この原則は簡単に理解することができます。


まさに、高岡氏に感謝であります。



という私も、この身体意識という言葉は、
高岡氏からそのまま借用していますし、
今のように語れるようになっているのは、
氏の体系化されたシステムのおかげであります。




ここからまた長くなりそうなので、
次回に私の感じている、身体意識の状態と、
簡単にその原理と、進展の可能性などについて書こうと思います。


不安定な自己の存在に楔を打ち込む

前回の記事で、
自分の存在の中で、
自分の自由に使うことができるのは、唯一、「思考」であると書きました。


ただ、思考をコントロールすること、って実は難しいですよね。


やってみればわかります。

考えたいことだけを考えていることは、
落ち着いている時、なんの問題もない時には、それほど難しくはないですが、
ちょっと、難しい状況になったときには、人は簡単にその状況に飲み込まれてしまうので、
その瞬間には、考えたいことだけを考えることはできなくなってしまいます。

例えば、難しい状況といっても、
ただ他人を目の前にするだけで、人はその状況に飲み込まれ、
自由を失います。
それは、その人物を判断したり、その人物にどう思われるのかを考えたり、
いろいろな、自動的思考を始めてしまうからです。



唯一自分の自由になる「思考」ですらコントロールが難しいのですから、
いかに、自由でいることが難しいかということですよね。



このように人間は不安定で、
自動的な反応の外で何かをすることは、
なかなか大変なことなのだと言えると思います。


なぜなら、メンタル(思考、知性にあたる)も、感情も、
不安定なメカニズムで、基本的には、自動的に、自律的に
作動しているものだからです。




ただ、この不安定な自己の存在に楔(くさび)を打ち込むことのできる、
この上なく、確実なものが2つあります。


一つは、自己をコントロールするためのエネルギーをふんだんに蓄え、
ふんだんに使えるようにする方法であり、
もう一つは、身体意識と言われる。身体感覚に根ざした一つのマーキングであります。


今後この2つについて、書いていこうと思います。

美の中に生きる方法

人には、最大の自由がもともと備わっております。


それは、思考です。


感情はまったく不自由です。
我々、自我からすれば、感情はまさに手に負えない「じゃじゃ馬ちゃん」なのであります。
そして、自律神経を中心にした、本能もまた、
我々、自我から独立して、勝手に肉体を運営しております。

あとは、現実とか、また他人も自由にはならないですよね。
まあ、そう簡単には無理です。


では思考。
これが今とりえず自由に運営できる、唯一のものです。


なので、自由になりたかったら、何を考えるのかということをおざなりには出来ません。
自分の考えたいようにものを考えるなら、
否定的な思考をまず追い出してしまわなくてはなりません。

そして、自分の「美感」に合う事、合う物だけを選択し、
想像し、考え、それに喜び、それを楽しむことが非常に重要だと考えます。


叡智の源泉へ

現実という世界はあくまで相対的なものである。


これを文字通りに捉えるなら、
事実とか、正しいことも、全て相対的なので、
自分の選んだ現実を好き勝手に生きることも可能だ、

というのが私の論理であります。


では私がどのようなことを現実として信じているのか
ということであります。




例えば、私はレオナルド、ダ、ビンチが到達したような
宇宙の叡智の源泉に私も必ず到達出来るのだと信じております。

常識的に言えば、そんなことは絶対に不可能だと
誰もが思うでしょう。

しかし現に、ダビンチだけでなく、バッハや、モーツァルトのように
そこに到達し、常人には決して辿りつけないような叡智を
そこから引き出してきた人間が存在しているのです。


その到達した人間とそうでない人間の一番の違いは
実はそこなのです。

到達した人間は最初に必ず到達することを信じ、
確信した。だから到達したのです。

逆に言えば、到達できない人間は、
到達することを信じなかった人間なのです。



とはいえ、私が今このように信じるに至ったのは、
よくよく考えてみると、長年の(正確を期するために、プロとしては10年程度ですが)
芸術活動から、そこに至る道が見えてきたからだと言えます。

何も無いところから信じきるのは容易なことではないですもんね。



で、ここで秘密を明かしますが。
至るポイント、
というか手段は、
身体意識と、想像力だと最近は確信しております。


「想像」と「創造」が同音であるという、
日本語の優れた点に改めて気づかされますが、

私は職業上、身体意識を相当レベル鍛えてきておりますが、
想像力の方は結構お粗末なレベルなので、
これから10年をかけてでもこれを増大していこうと
考えておるところなのです。

私のしっぽ

私のしっぽの続きの話になります。

前々回の「荒唐無稽で楽しい現実に生きる」で書いた、
私が本当に半分、その存在を信じ込んでしまっている
私に生えている、背骨と同じ長さがあるしっぽの話です。


これは身体意識の延長として、実感があるもので、
これを意識している時には、体のバランスを滑らかにとる、
素晴らしい機能を発揮しているのだということを書きました.


で、書き忘れたことなんですが、
身体意識というのは一般的に、最初は意識している状態でしか働かないものが、
次第に無意識の中に刻み込まれていき、最終的には完全に修得され、
意識をしなくても自動的に機能する機構になっていくのです。

というわけで、この荒唐無稽な妄想が、
次第に自分の機構に組み込まれていくという、まったく意味不明な、
自由自在に自分の存在を作れてしまうという奇跡がそこに存在するのです。

これは、まるで自分のバイクかなんかをカスタマイズするような感覚でございます。


そんなことを考えているうちに、ちょっと自分に角を生やしてみたらどうだろうとか、
まじで、わけのわからないことを思いついてしまいました。

これが、また結構うまくいきそうな予感!w
自分に角があると意識すると、これが何か受信機のように働くのです。
何かを感じ取る力がずっと増します(断言)。


私は、これでモーツァルトのレクイエムを聞いて、ぶっとびそうになりました。w

フランスの女の子

私の住んでいるフランスは、
本当にろくでもないことばかりがまかり通る変な国ですが、

女の子の可愛さだけは、名実共に、ヨーロッパ随一です。

結局は白人女性が一番可愛いと思っている私には、とってもいい国なんです。


得に、フランスの女の子のいいところは、
道端で、可愛いなー!って思って女の子を見ると、
その子たちが喜んでくれることです。

彼女らは男に見られると、
自分が男に「美しい」と思われる事に満足して、
「もっと見て」というような表情になります。w

なんていうか、斜め横からの視線に答えるように、
キリッとモデルみたいにちょっと首を上にそらすみたいにする子もいます。



いやー、今日は仕事ですごくうまくいったことがあって、
ルンルン気分で街を歩いていたので、余計にだったのかもしれませんが、
めちゃくちゃ可愛い子を見つけて、思わず目で追っかけてしまったのですが、
その子の喜びよう、満足のしようが、私をさらに嬉しくさせてくれました。



もちろん、汚らしいおっさんに見られたら、不機嫌になるかもしれませんが、
奇麗に、かっこよくしてる、おっさんなら大丈夫です。



こっちでは多分、30代後半ぐらいから、
男の色気みたいのを女性達が認めてくれるようになるような気がします。

長年ヨーロッパに住んでいると、確かに20代の男ってのは、
ガキっぽいし、アホだし、野暮ったいし、まあ、洗練されてないので、
かっこ良くないって、私自身もそう感じるようになってきています。



男性諸君頑張ってください。今の30代は日本人も相当かっこよくなって来てますもんね。








荒唐無稽で楽しい現実に生きる

私は、いろいろな現実を自己にでっち上げています。


一つ最近、最高に気に入っているのが、私の「しっぽ」についてです。


私は自分の尾てい骨から、丁度背骨と同じ長さのしっぽが上に向かってニョキッと伸びていると、
すでに、半分信じているのです。w


これは丁度黒猫のしっぽのようにふさふさな黒い毛で覆われたもので、
私が立っている時には、
私の後頭部のあたりで先っぽだけをふわふわと揺らしながらバランスをとっております。


このしっぽは、もちろん実態はないので、別にズボンがあっても邪魔ではないのですが、
本当に素晴らしい機能を持っております。

自分の背骨と同じ長さものが常にゆらゆらと揺れていると、
体が非常に軽く感じられます。
丁度シッポの先端は背骨の先端、つまり脳髄のある部分と対応しているので、
こうして文章を書いている時にもしっぽの先端をゆらゆらさせていると、
脳髄の部分が刺激されて、頭がスッキリしてきます。

歩く時には、しっぽを水平にして、やはり先端を少しだけゆらゆらさせると、
非常に軽快に、なおかつ無理もなく、速いスピードで闊歩することが出来ます。


自分がしっぽのあることを想像していない時はこれらの機能はすべてなくなってしまいますが、
シッポを感じている間は、これが、きちんと機能してくれるのです。

身体意識というのは、体の外にも形成することが出来ます。
それは、得に鍛えていない人でも、背後に気配を感じる力は大体はあることを見ても
明らかであると思います。

その外部の身体意識を「しっぽ」という形で形成していくというのは、
私にはたまらなく楽しい遊びです。


だいたいが、こんなものがあることを想像している自分自体が楽しくてしょうがないし、
それを誰にも言わずに楽しんでいることも、ナイショにする楽しみを刺激してくれます。
そして、何よりも、これは現実にすごい機能を発揮してくれるのです。


こんなのも「しっぽ」という身体意識を形成するという「趣味」が流行ってしまったら、
それなりのコンセンサスになる筈だと思います。
まあ、これはすごくプライベートなことなので、
多分、恋人同士ぐらいの関係でないと、自分のしっぽの色や、質感などは
話さないでしょうけどね。w

多分、趣味を共有している人の間では、道端を歩いていても、しっぽがある奴とない奴を
見分ける事も可能でしょう。

自分の信じる現実を生き抜くということ

自由であるというのは、
自分の信じる現実を生き抜くということ。


その為には、刷り込まれた「常識」に打ち勝つ必要があるのです。
多くのことを、両親を始め、社会に信じ込まされて、我々は成長します。


まず、それらの常識とは、社会で偶然または、恣意的に形成されたコンセンサスにすぎない。
つまりその「常識」又はコンセンサス自体は「現実」そのものではなく、
それぞれの社会の構成員が「信じ込まされた」現実なのであるということを理解する必要があります。


そして、あらゆる側面から、それらの「常識」と対面し、打ち勝つ過程をへて、
人は、自分が何をどう思いたいか、何を現実として信じたいのかということを、
自分の美学にあわせて、選択し、自らの信念として確立するということができます。


今言う、打ち勝つ過程というのが、ニーチェの言う、
「獅子」の段階であり、
信念を確立した段階を、超人と名付けることを、ニーチェは許してくれるでしょう。


その人間は、真に「自由」な筈なのです。
私は、それを目指しております。

妊婦の腹筋

私の職業である、ゲージツの技術を磨き続けるために、
私は身体の調整に、かなり重きをおいております。

ここ最近腹筋をもう少し緩めることができないかと
試行錯誤していたのですが、


ふと、妊娠4ヶ月目になって大分おなかが大きくなってきた私の妻をみて、

おいおい、妊婦の腹筋って一体どうなってるんじゃい!

と、思ったのでした。


ただ、腹筋の緊張をほどいて、立つだけで、
体を支える為にかなり腰に力が入るっていうのに、
妊婦ったら、腹筋が完全にのびきって、まったく使えない状態で何ヶ月も過ごすわけですよね。



うーん。人体の不思議。

夜の快感

昨日は一日、断食をしていました。
私はたまにこれをやるのです。

1月に一度、たまった毒を外に出す、というつもりでやっております。


断食はなかなか危険もあって、難しい部分もありますが、
一日の断食は、まず簡単に、危険なくできるので、
あまり無理せずこれを続けることにしたのでした。



断食にはいろいろな効果がありますが、
まず、顕著に現れるものは、睡眠時間で、
私の場合、食べなければ食べないほど、
必要な睡眠時間が短くなります。

昨日の夜、丸一日食を断ってから、うとうととしていると、
なんだかこのウトウト感が気持ちいーのです。
これは確実に脳内から、快楽物質が流れ出ているなぁと感じました。

なんですかね、このホルモンは。
もうなんだか、気持ちいー!と声に出したくなるような感じなんですよ。


その昔、村上春樹のエッセイで読んだことを、そうしながら思い出したのでした。
彼にとっては、睡眠というのは、ベッドに入ってから、朝起きるまで、
何らかの物質をチューチュー吸い続けて、それが吸い終わると、目が覚める
という感覚を持っている、というふうに書いていたのですが、
当時、それを羨ましい睡眠だなぁと思ったのでした。

きのうは、そうやってウトウトしながら、
あー、これだ。このチューチューって感じ。
わかるなぁ。

と、思ったのでした。w

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