自由を求めて

断食療法

前回書きました、

「病気と、健康という概念を捨てる」ということが
ことのほか、重要であると感じております。


あらゆる力の充満した状態から、死という二つの極があり、
人間はいつもこの2つの極の間を、行ったり来たりしていると考えると、


普段自分が、その階梯の、どの位置にいるのか、


という疑問が湧きます。




その疑問こそが非常に重要だと考えます。

なぜなら、多くの人が
気力、体力、集中力、など、あらゆる人間の持てる力に充満しているわけではないにも関わらず、
「病気」でさえなければ、「健康」であるということになり、
それで、あまりに多くのものを失ってはいないか、

人間に与えられた可能性の、多くを失っているのではないか
と思われてくるからです。




そこで、少なくとも、確実に自己に眠る力を
奮い立たせる方法があるということを、書いていたのですが、
そのうちの一つが
食事の制限と、性欲の制限であると書きました。



食事の制限とは、
まあ、断食療法のことと考えてもいいと思います。


これについて、説明を加えていくと、
書籍一冊分ぐらいは説明しないといけない筈なので、
詳しくは
甲田光雄
石原結實
船瀬俊介

などなど、いろいろな方が実際に多くの患者さんを治して、
多くの経験と共に本を書いていらっしゃるので、
そちらを参照していただけたらと思います。

ここに上げた3名は、さっと私が思い出した方で
食事を減らす事で力を得る、断食療法で割と有名な方達ですが、
この方法を実践し、推奨されている方は他にもたくさんおられます。

で、この3名とも、一日一食で生活をされている、されていた(故人もいるので)そうです。



一日一食というとわりとギョッとされる方も多いと思いますが、
これが、やってみると、割と難しくない。

もちろん段々にそこまでやっていくわけですが、(私は約半年をかけてその段階までやりました)
そこまで至る間に、今まででは
想像もつかなかったような力が、自分の中から湧き上がってくるのを感じるので、
正直やめられなくなってしまうのです。


私は、この小食生活だけで
日常的に使えるエネルギーが5割は簡単に増えたと感じております。


これの肉体、精神状態、知的状態に与える好影響は並々ならないものですが、

そのことについてまた、ちょこちょこと書いていこうと思います。

奇跡の自己コントロール法

では、前回書きました、

「不安定な自己の存在に楔(くさび)を打ち込むことのできる、
この上なく確実な2つのもの」

のうちの、一つについてです。




思考や感情、行動力や勇気(胆力)など、
自分の存在というのは、
コントロールの出来ないものばかりなのであります。


勇気を出そうとか、こうやって行動しようとか思っても、
どうしてもする力が出ない、
何年も、「こうしたらいい筈なのに」と思っていて、
実現することが出来ないなどということは、よくあることだと思います。


いい事を考えていたい、と言ったところで、
何かが起こるたびに、いろいろと愚痴が出たり、
自己正当化の為に、長時間思考力を使っていたりします。


感情がコントロールできないのは、言わずもがなですよね。




そんな、ほぼコントロール不可能な自己の存在を
コントロールするために、
非常に確実に、安定して機能するものが存在するのです。

しかも、これには、何の集中力も、
練習も、技術も必要ありません。

ただ、やればいいだけという、ほとんど奇跡的な方法。



そして、これをするだけで、
気力、思考力、精神力、知力、体力、胆力、決断力、想像力、行動力、集中力

が、充実して、昼食後に眠くなる事もなくなり、


まるっきり一日中、自分のしたいことをやり続けても、
まだまだ寝る前に、何か、難しい本を読んだり、調べ物をしたいと
思うほど、気力が、または好奇心までもが、活性化されているという
奇跡の方法。



それは、食事の量を減らすことと、
性的欲求を満たさないことであります。





病気と健康の二元論を超えたところ



健康は、美であると私は考えます。


西洋的な医療を前提として、社会が出来あがってしまっているため、
我々は、病気と健康を二元論的に捉えてしまいがちです。



しかし、その二元論を壊してしまう。

つまりそこから自由になってものを捉えると、


健康と、病気は、二つの相反する状態ではなく、
生きる力(思考力、精神力、感情的力、体力)を最大限に使える状態から、
「死」という状態を無段階に行ったり来たりする我々の状態の一部であると
気付くことが出来るでしょう。


すると、健康であるということは、病気ではないことではなく、
生きる力を最大に使うことが出来る状態であり、

気力、精神力、知力、体力、胆力、決断力、想像力、行動力

など、あらゆる力が、最高に充実した状態にあることを言うのだと
私は捉えます。



すると、そのような健康な状態とは「美」としか言いようがありません。





以前書きかけて、まだ書いていない。


「不安定な自己の存在に楔(くさび)を打ち込むことのできる、
この上なく確実な2つのもの」

のうちの一つがこれで、

次回、これについて書こうと思います。

美意識

美意識は、

造形だけに向けられる意識ではないと考えます。


行動の美学、
存在の美学、
関係性の美学、
なんていうものは、個人的な美意識の中でも非常に重要なものだと考えられます。



いかに行動することが、美しいのか、

どのような存在であることが、美しいのか、

どのような関係性をつくることが、美しいのか、



行動の美学には、振る舞いや、動作の美学もありえるでしょう。
それらにこだわり、
自分はどのように動き、どのように振る舞うのかということを
自ら決定するだけで、実に、わくわくした気持ちでいられると思います。



それに加えて、造形の美意識、色の美意識、音の美意識が付随するでしょう。


これらの美にこだわり、
自分の周りに、多く配置すること。
それが実現すればするほどに、
人生は豊で、満足感の伴うものに近づくと感じます。

身の周りに「美」を実現する



美とはそもそも何なのでしょう。


美に、絶対性があるのか、
美は、純粋に好みの問題でしかありえないのか、
なんていう議論も可能でしょう。


しかし私は、美に絶対性はあると言い切ります。


何に関してでも美を追求するなら、
そこには、ある種の、絶対性が見え隠れするものです。



ただ、それは追求した者にしか現れないことだから、
一般論としては、いつまでも美に絶対性かあるかないか、
という議論が続いてしまうだけなのです。




美は、美意識を磨く事によって、
より鮮明に、我々の目の前に現れるものです。




私が、それぞれの個人に訊きたいのは、こうです。

「あなたの人生は美に溢れていますか?」


自分の身の周りに、自分の考える範囲での「美」をたくさん置く事が出来るなら、
すでに、人生は活気の溢れた、力強いものであるでしょう。



「美」のない人生には、
打算、
愚痴、
不満足が溢れます。


美を探し、身の周りに配置する力のある人間は、
満足を知り、
喜びを知ります。

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